研究成果:その1 EBM新時代とEBM教育のあり方についての一考察

我が国のEBM普及については、ここ1、2年、さまざまの評価がある。

確かにEBMのジャーナリスティックな新奇性は失われつつあるとはいえ、昨年2月に「EBMが遺したもの」と題する特集を組んだ某医療情報誌のインタビューに答えて、名郷直樹氏(うわまち病院、地域医療研修センター)が、“若い医師の間にEBMは根付きつつある”、と話していたように、わざわざEBMの旗印を大仰に掲げなくとも、エビデンスに基づく診療姿勢が当たり前のこととして受け入れられる時代に入りつつあると見てよい。診療手技の匠を自認するいわゆる“専門医”の人達が、“門外漢に自分達の技術を評価(批判)されたくない”、とEBMを毛嫌いする一方、EBM推進派を自認する人達が、“金科玉条の如くツール(道具)としてのエビデンス(=最新の医学文献)を振り回す”、といった情景は確かに少なくなった。では、EBMは、本当に果たすべき役割を果たしつつ普及しているのであろうか?

EBM新時代その1

文献検索/吟味のツールから行動様式(規範)としてのEBMへ

1992年、Guyattらによって提言され、臨床疫学の基本的立場を簡潔に表現する「標語」として世界の医療界を席巻したEBMは、本来、「文献的エビデンスを把握した上で、個々の患者に特有の臨床状況と価値観に配慮した医療を行うための行動指針」(福井次矢「EBM実践ガイド」、1999)であったはずである。然るに、これまでは文献検索・吟味のツールとしての側面が注目されすぎてきた。2005年の米国総合内科学会でも「ステップ4=患者への適用」がEBMワークショップの焦点になっていたが、改めてEBMが新時代の医療人が身に付けるべき「行動様式(規範)」であることを機会のあるごとにEBM普及活動の中で強調していくべきである。

EBM新時代その2

医療安全と質改善運動の立場から見たEBM

医療事故報道をきっかけとする医療安全の問題が医療界の大きな関心事となったこともEBMの注目度低下の一因といえよう。しかし、当然のことながら科学的根拠に基づく合理的な診療(EBM)は“安全で質の高い”医療の大前提である。医療の質改善の立場からは、「EBMとは、医師が医学知識・医療技術の領域で行う質改善のための努力」であり、病院の“全職員”が協力して行う“安全で質の高い医療を提供するためのシステム作り”が、組織としての質改善運動、ということになる。医療安全推進の立場からもEBMの実践がますます期待されている。

EBM新時代その3:

新しい医療プロフェッショナリズムのコアにあるEBM

今日ではプロフェッショナリズム重視の立場から、期待される医師像をコンピテンシー概念に基づく教育目標として示すこと(例:米国卒後研修協議会(ACGME)の6つのCore Competency、我が国の新医師臨床研修制度の6つの「行動目標」など)が医学教育界のグローバルスタンダードとなっている。
2005年になってようやく、Annals of Internal MedicineとThe Lancet に同時掲載(2002年2月)された「新千年紀の医療プロフェッショナリズム憲章」が日本総合診療医学会機関誌“General Medicine”最新号に再録されたが、この中でも専門職としてのコンピテンシーの維持、最良の患者アウトカムを目指す医療の実践等が医師の責務として列挙されている。これからの医療職教育では次世代の医師にこのようなコンピテンシーを如何に身に付けさせるかが問われているが、応用教育学理論の立場からも医療分野に限らず専門職業人が専門職業人であるためには、そのコアに、「Reflection(省察ないしは反省)」という契機がなければならない(Schon, D.: Educating the Reflective Practitioner (1987))とされているのは示唆に富む。

付記:古いプロフェッショナリズムと新しいプロフェッショナリズム

Sackettらが活躍した臨床疫学の揺籃期には、専門家の欺瞞を暴き、異議申し立てをすることが時代を象徴していた。当時は自立した市民の連帯と工夫さえあれば専門家なしでなにごとも解決できるとの熱気が支配していたが、近年ではマックス・ウェーバーやタルコット・パーソンズの社会学理論に基づき、社会発展と共に分業や社会階層の分化が生じることを前提に、専門職の社会的役割やその教育のあり方を議論する時代に入っている。
専門職能団体の要件には、高度の系統的専門的修練、専門領域の内容・基準を決定するに当たっての自律性、学術内容・基準を示す学術雑誌の刊行、国家の規制や市場原理からの一定の独立性などがあるが、専門職業人の社会的責務として、社会に向かって発言すること(Pro-fessの本来の語源は、公言するdeclare publicly)、更には発言したことを実現すべく社会に働き掛ける(Negotiate)ことが挙げられている。
この観点から見ると、先に紹介した「新千年紀の医療プロフェッショナリズム憲章」で、患者の福利を第一に考えるヒポクラテス以来の伝統的職業倫理(古いprofessionalism)に加えて、患者の自律(autonomy)=自己決定権を根幹に据える患者中心主義を強調すると共に、社会正義(Social Justice)の立場を基本原則に加えていることが納得できる。
今日、医療現場で透明性と説明責任が最も重視される所以は、この「患者の自律」と「社会正義」の原理にあるが、医療サービスの賢い消費者としての患者像の広がりと軌を一にするこのような新しい“社会的“医療観と、診察室というプライベートな空間における医師と患者のエンカウンター及びそこで展開される人間的コミュニケーションから出発する“個人主義的”医療観との整合性についての議論はまだまだ不十分である。

EBM新時代その4:

医療"標準化”への流れと臨床医の”決断”‐EBMの役割とは

少子高齢化社会を迎え、医療や年金を従来の国民国家の枠組みで支えきれなくなった現実を前に、小さな政府や競争原理の導入を旗印とする医療制度改革が急速に進みつつある。医療機関は、効率化を求められる中で、説明責任を果たし、安全と質改善にも取り組まなければならない。医療界としてこの隘路を切り抜け、安全で質の高い医療を提供するための唯一とも言うべき方策が医療の“標準化”である。
一方、EBMのルーツは、臨床現場の不確実性、将来予測の困難に直面し、“決断”を迫られた臨床医が、最善のアウトカムを求めようと疫学的思考を診療行為の評価に取り入れたところにある。ところが、近年、メタアナリシスや構造化総説などEBMの手法が成熟し、臨床医には、エビデンスの詳細な吟味は専門家に任せ、EBMの二次資料や“UpToDate”に代表される電子教科書を活用することが推奨されている。更に、このような二次資料に示された診療情報がEBMに基づく診療ガイドラインや研修医用ポケット・マニュアルに反映される等々、医療の標準化が、“決断”を迫られた臨床医の“悩み”を“解消”しつつあるかのようである。また看護職を中心にクリニカル・パスの活用が急速に普及しているが、このような標準化を通じて医療政策の立案だけでなくその客観的評価も容易となり、社会全体としての医療の質向上に寄与することは大いに期待できる。
ところで、このような傾向が極端に走ると、現場の医師には個別の判断が許されなくなるのではないか、研修医が患者を目の前にして、考え、悩み、判断することがなくなってしまうのでは(いわゆる“マニュアル医療”)、との不安がよぎる。コンピテンシー概念については先に述べたが、研修医に、患者の個別の状況や価値観に配慮して"総合的な判断"を行う習慣=行動様式としてのEBMを身に付けさせるためには、最初に述べたように、ワークショップの運営の仕方も含め、「EBMのステップ4=患者への適用」を中心に、EBM教育方略を更に工夫する必要がある。

EBM新時代その5:

臨床家による臨床家のためのエビデンス作り―「生きた」診療ガイドラインを目指して

また患者の個別性への配慮と並行して、上述の診療ガイドラインやマニュアルがドグマ化することを避けるにはEBMの手法によるガイドライン内容の検証と定期的な改訂作業が必要である。診療ガイドラインの見直しに当たっては、ITの活用によって、EBMのユーザーである臨床医が日々の臨床実践を通じてエビデンスの作り手としても寄与できる双方向的な臨床研究のネットワーク作りが課題となろう。そのためにも臨床医自身が臨床現場で生起するさまざまの“臨床上の疑問”を暖め続けるとともに、エビデンス作りに寄与しようとするリサーチ・マインドを持つことが求められる。

EBM新時代その6:

EBMの示す“統計的” 真理にどう向き合うか?

更にEBMをめぐっては、その先に、どうしても避けて通れない臨床現場の不確実性、特に臨床行為によって生じるアウトカムの不確実性にどう向き合うのかという問いが横たわっている。患者は医師に確かな答えを求め、臨床医も自らの診療を裏付ける確かなエビデンスを求めている。しかし、将来の事象については、臨床研究のエビデンスは統計的な表現をとらざるを得ない。このジレンマがともすればさまざまのバイアス( Bias)を生み出し、最悪の場合はEBMに対する否定的な感情に結びつく。患者の立場からも、臨床医の立場からも、臨床現場における将来予測の不確実性にどう向き合うかをもう一度原点に帰って問い直す時期が来ているように思われる。