論考:EBMを実践できる医師を育てる環境は進んだか?

はじめに:

EBMはツールか、行動規範か?  曲がり角に来たEBM教育:

1992年、Guyattらによって提唱されたEBMは、臨床疫学の基本的立場を簡潔に表現する「標語」として瞬く間に世界中の医療界を席巻した。然るに昨今、EBMが一頃ほど話題とならなくなったことを取り上げて、「EBMブームは過ぎ去った」とする論調が我が国医療ジャーナリズムの一部に見られる。その背景には、EBMが、本来、「入手可能で最良の科学的根拠を把握した上で、個々の患者に特有の臨床状況と価値観に配慮した医療を行うための一連の行動指針 (福井次矢「EBM実践ガイド」、1999) 」と定義されているにも拘らず、これまでの普及過程で文献検索と吟味ためのツール(=道具)としての側面が強調され過ぎたことや、時には“エビデンス(=最新の医学文献)を金科玉条の如く振り回す医療”と誤解されてきたこと、忙しい臨床医のためのEBM2次資料が普及し始め、ツールとしてのEBMにそれほどこだわる必要がなくなったことなどがあると思われる。
更に、医療事故報道をきっかけとする医療安全の問題が医療界の大きな関心事となったこともキーワードとしてのEBMの注目度が下がった一因かもしれない。しかし、当然のことながら科学的根拠に基づく合理的な診療は“安全で質の高い”医療の必須要件である。医療の質改善の立場からは、EBMとは、医師が医学知識・医療技術の領域で行う質改善のための努力であり、“安全で質の高い”医療を提供するために病院の全職員が協力して行うシステム作りが組織としての質改善運動、ということになる。医療安全推進の立場からも、臨床医には、臨床研究のエビデンスに基づき、患者の期待と現場の状況にも配慮した臨床判断を行うことがますます期待されている。

新しいカリキュラムにEBMの考え方は反映されているか?

新医師臨床研修制度では、EBMは研修カリキュラムの骨格部分に位置づけられている。医師のプロフェッショナリズムは「人格の涵養」との表現で2大理念の一つに位置づけられ、EBMは、コンピテンシー概念に基づく行動規範(行動様式)を明文化した6つの「行動目標」の3つ目、「問題対応能力」の中に以下のように表現されている。

(3)問題対応能力

患者の問題を把握し、問題対応型の思考を行い、生涯にわたる自己学習の習慣を身に付けるために、

  1. 臨床上の疑問点を解決するための情報を収集して評価し、当該患者への適応を判断できる(EBM =Evidence Based Medicineの実践ができる。)。
  2. 自己評価及び第三者による評価を踏まえた問題対応能力の改善ができる。
  3. 臨床研究や治験の意義を理解し、研究や学会活動に関心を持つ。
  4. 自己管理能力を身に付け、生涯にわたり基本的診療能力の向上に努める。


このように、全ての医師に必要とされる「基本的臨床能力」の支柱としてのEBMは、制度的にも明確になったといえよう。
また、行動目標(5)「症例呈示」は診療上の行動規範としては不釣合いな印象を与えるが、研修医にとって重要なコミュニケーション能力の一つであるだけではなく、EBM教育にとっても重要なポイントである。

(5)症例呈示
チーム医療の実践と自己の臨床能力向上に不可欠な、症例呈示と意見交換を行うために、

  1. 症例呈示と討論ができる。
  2. 臨床症例に関するカンファレンスや学術集会に参加する。

「症例呈示」能力は、Bordageの強調する”Key feature”や”Semantic Qualifier”を抽出する能力、McMaster大学の新しい”Compass Curriculum”で強調されている”Conceptual thinking”などと同様に、患者の問題を概念化して把握する能力でもあり、EBMの「ステップ1=問題の定式化」に直結している。
米国卒後医学教育協議会も研修医の修得すべきコンピテンシー(行動規範)を同様の形で示しているが、成人教育原理に基づくこのようなアプローチは、コンピテンシー基盤型医学教育とも呼ばれ、現在、医学教育のグローバルスタンダードとなっている。
一方、患者安全と医療の質改善を推進する立場からも医療専門職(プロフェッション)教育における「コンピテンシー(行動様式としての実践能力)」概念が重要視されている。例えば、米国IOM(Institute of Medicine)が医療安全教育に関連して取り上げたコンピテンシーは、(1)患者中心の医療、(2)チーム・アプローチ、(3)EBM、C患者安全と医療の質、D情報技術の活用、の5つである。若干の異動はあるが、いずれの例でも、医師のコンピテンシーは対人関係(コミュニケーション)に関する内容と科学技術・管理面での質の確保(EBMや安全)に関する内容とに大別できる。
なお、一言付言すると、コンピテンシー概念をめぐる議論の背景には、専門家(プロフェッション)集団をどう捉えるかについての時代の変遷が見て取れる。即ち、1970〜80年代、EBMは専門家の権威や存在そのものに疑義を呈することから始まったが、今日の議論は、専門家集団の存在を前提として“新しい”プロフェッショナリズムを如何に育ててゆくかという問題意識から出発している(医療のプロフェッショナリズム憲章2002年)。
このように、大筋ではEBMの考え方は新しいカリキュラムに反映されているといえるが、実際の研修現場でこれが度の程度浸透しているかは別問題である。以下、大学病院の実情に沿ってEBM教育の現状とあるべき姿を略述する。

研修医はEBMに関心を持っているか?

研修医を含む最近の若手医師は、指導医との人間的(情緒的) な 絆(きづな)を重視する従来の徒弟制的な関係から、学習者とそれを支援する援助者としての指導医という比較的淡白な関係を好む傾向がある。メソポタミア時代から、近頃の若い者は、という年長者の愚痴はあったようであるが、新しい臨床研修制度の導入と非入局のローテート研修はこの傾向に拍車をかけている。

研修医は何を求めているか?

研修医は、言うまでもないことであるが、一日も早く患者から信頼を得られる臨床医になりたいと望んでいる。手技の習得が優先される診療科では、特定の優れた指導医との個人的な紐帯を求める場合もあるが、研修医の多くは、経験症例、指導体制、更には待遇など研修環境の整った研修病院に関心を示している。その根底には、どこでも通用する普遍的な医学知識、診療能力を身に付けたいとの考えがある。また、透明性と説明責任を医療の受け手から求められる医療環境の中では、患者・家族とのコミュニケーションにおいても、行おうとする診療行為にどれくらいの科学的根拠があるかを問われることがますます多くなる。これらの条件を考慮すると、研修医のEBMへの潜在的関心はますます高まっているといえよう。

受身の研修医:マニュアル類とEBM

しかし、一方で研修医の間にEBMへの強い興味が見られないとすれば、それは、研修医が、特に研修開始早々は、既存の(標準化された)医学知識や診療手順(「ルーチン」)の習得に躍起とならざるを得ないからではなかろうか?
EBMの最近の動向として2次資料や診療ガイドラインの役割が注目されているが、ワシントンマニュアルに代表される研修医用マニュアル類には実用的な医学知識、診療のスタンダード、診療ガイドラインなどが凝縮した形で収載されていて、EBMの2次資料と相通じるところがある。その内容が科学的根拠(エビデンス)に基づいている限り、マニュアル自体を否定する必要はないが、マニュアル類に依存した医療は、しばしば、安直で平板な「マニュアル医療」と指弾される。実際は、研修医の経験不足または怠惰からマニュアルに示された指針(ガイドライン)を、目の前の患者が置かれている個別の状況、患者の価値観に配慮せずに適用している場合が問題となっているのである。このような時にこそ、マニュアルに記述された診療ガイドラインがどのようなエビデンスに基づいているのか、エビデンスの患者への適応(=EBMのステップ4)では、どのようなことを考慮すべきか、等EBMについての関心が研修医自身の中で顕在化する。

今の臨床研修制度でEBMを実践できるか?

前項で述べたように、制度上も研修医のニーズからもEBMを実践できる素地は整っているのであるが、大学病院での研修にはまだまだ問題が多い。専門診療科の壁、いわゆる「雑用」の多さ、症例の少なさと偏り、指導医の問題、等々枚挙に暇がない。しかし、創意と工夫によって研修医にEBMマインドを植えつけることは不可能ではないと考える。

EBMを普及させるために臨床研修で何をすればよいか?

研修医のための教育企画:大学病院の場合

大学病院も含め、研修病院でEBMの普及を図るには、通常、実施されている日々の教育企画の中でEBMの重要性を強調してゆくことが基本となる。その例を表1に示した。

指導医研修(ファカルティ・デベロップメント)

研修医の診療姿勢はさまざまの形で指導医の影響を受ける。古いタイプの指導医は、パターナリスティックな医師と同様、研修医思いの気持ちからとはいえ、自分の経験を研修医に押し付けがちである。このような指導スタイルはEBMに馴染まないが、大学病院に多いタイプといえる。一方、診療的介入のもたらす利益と不利益を常に斟酌し、研修医と共に問題解決をしようという姿勢を、指導医自身が示すことによって、研修医は患者中心の問題解決のための羅針盤としてのEBMに目を開かされることになる。
また、EBMは単なる文献検索と吟味ではなく、あくまでも臨床判断を行うに当たっての診療姿勢の問題であり、従って、そのエッセンスは「ステップ4=エビデンスの患者への適用」にあることを強調すべきである。実際の指導に当たっては、

  1. 患者の「語り」の文脈に付き従って共感的且つ治療的な関係の構築を目指すNBM
  2. 患者の価値観や医療への満足度をQOL指標等で定量的に解析するQOL研究

の方法論を参照することが出来る。
これらのことも含め、EBMの指導に当たる指導医の資質向上のためには、以下に述べるような指導医講習会(ワークショップ)を各病院単位でも開催する必要がある。

EBM普及支援のための講習会(厚生労働省研究班の活動) (略)
指導ガイドラインの策定(厚生労働省/国立保健医療科学院)

平成17年に入って、厚生労働省のリーダーシップによる現場の指導医向けの臨床研修指導ガイドライン策定が進んでいる。その内容の一部はすでに国立保健医療科学院ホームページ(www.niph.go.jp)上に公開されている。

おわりに―EBM教育の今後の課題

(1)"標準化”への流れと患者の個別性

EBMの2次資料、診療マニュアル、診療ガイドライン、クリニカル・パス等の医療標準化の流れの中で患者の個別性への対応能力を身に付けさせるための方略を具体化する必要がある。また一方で、診療ガイドライン等がドグマ化することを避けるにはEBMの手法による内容の検証と定期的な改訂作業が必要である。診療ガイドラインの見直しに当たっては、ITの活用によって、EBMのユーザーである臨床医が日々の臨床実践を通じてエビデンスの作り手としても寄与できる双方向的な臨床研究のネットワーク作りが課題でとなろう。そのためにも臨床医自身が臨床現場で生起するさまざまの疑問を暖め続けるとともに、エビデンス作りに寄与しようとするリサーチ・マインドを持つことが求められる。

(2)統計的“真理”にどう向き合うか? (略)